読者の方からお題をいただきました。最近は苫米地派界隈ではセクシュアルなコンテンツはあまり見られなくなりましたが、2010年ごろは苫米地博士が直接セックスについて語っているコンテンツもいくつかありました。催眠や気功、密教の入り口としては大変キャッチーな話題ですから、当時の博士の戦略として妥当だった、ということでしょう。



…セクシャルな内容を一律に送りつけるもどうかと思いますので、続きはこちらで。

(誰が見たかは特定できませんのでご安心を)







時は過ぎ今は2023年です。国連の定めるグローバルゴール、さまざまな超国家的戦略の中で性を取り巻く状況はまさにディストピア化の一途を辿っているように見えます。







性がその抑圧と限定的解放により管理された社会は未来予測のようにSF小説の中に早くから展開された世界観です。ちょっとこちらをご覧ください。近未来映画でもVRセックスネタは定番です。



ご覧いただいたのは、スタローン主演の映画「デモリションマン」の一コマです。微笑ましくもわかりやすい描写ですが、侮れないものがあります。やはりハリウッドの情報密度は凄い。苫米地博士がそこにいるのもよくわかります。



このシーンでサンドラ・ブロック演じる女性が言っているセックスの本質的効能はほぼ真実です。正確に申し上げると、α波が出る云々は切り口としてはどうでもよいところで、セックスの効能としての主眼はドーパミンを大量に放出してIQをガンガンに上げることにあると考えられます。この作用はもちろん情報と物理にフィードバックするはずですが、両者の関係を博士が説明する時と同じで、IQが上がった結果、ドーパミンが分泌された、と考える方が正しいでしょう。つまりIQを駆使するとは包摂的に気持ちの良いところを探るということ。LUBを取るということ。そうすると抽象度は高くなります。よって繊細な刺激から、脳が高次の瞑想状態に入るのを断続的に追いかけているというのがセックスの本質なのでしょう。物理的な身体はそのインターフェイスであり、あるいは情報出力の結果に過ぎません。生殖はさらにその抽象度の末端の末端です。IQと快感のフィードバックは身体的な話に限ったことではありませんが、生身が良いかどうかは選択的自由の問題ですから、選択的自由がない前提に憮然とするスタローンの気持ちもわかります(笑)。



「苫米地英人、宇宙を語る」から超情報場仮説を思い出していただきたいのですが、宇宙創生以前の人間存在は全知全能ですから、そこに到達してしまうと宇宙は閉塞します。前号の死生観においても同じことを書きましたが、Want toの結果として人は快感のうちに生死の抽象度を超えます。物理における男女の抽象度も同じ階層にあるのではないでしょうか?抽象度の最初の枝分かれです。セックスは究極的にはその次元の統合なのでしょう。しかし、それにより宇宙が閉塞すると、種としては絶滅の危険がありますから、ランダムで生殖が起こる仕組みになっているのだと私は考えます。



ただし、その仕組みを誰が仕組んだのかはわかりません。一般に僧侶が妻帯しないのは子供を区別しないためですが、脱洗脳という点においてもそれは正しい選択肢なのかもしれません。つまりWant toを介し、瞑想と生殖という抽象度の末端の起点から起こる現象を利用して、外部からの操作が入ってきやすい、ということです。それが古来からの抑圧と解放を用いたアプリオリによる性の管理の現場なのでしょう。しかし、同時に生殖だけでなく性感染症のコントロール法も人類は手に入れたのだ、ということを考えると、それは悪いことではないでしょうから、発明したのが超国家権力であってもトカゲ型宇宙人であっても、それらアプリオリの破壊とは極端なやり方であるという視点も理解できるのではないでしょうか。もっとも感染症と生理周期の存在こそが何より自然に男女のディスタンスを確保してくれていたとも言えます。



しかし、生殖を伴わないセックスの行き着く先とはドーパミンジャンキーでしょうし、IQが上がったとて、たどり着くのは空ですから、その先の展望がないと腑抜けになってしまいます。だから、現状の外にゴールを持つということが必要なわけですし、それを持ってる人がモテるということですね。そして基礎体力や筋力も必要。ヨーガと同じです。通常人間は気の出し入れにもリミッターがかかっていますが、一部の人たちは気のサイクルを自分の外側に出すように操作を入れ、訓練しています。ただし、体力や筋力がそれに追いつかないと、クンダリーニ覚醒に耐えられず、背骨に激痛が走り動けなくなります(経験者は語る)。このようなことだけを見ても、悟りも結局煩悩だということがわかるのではないかと思います。だから悟りも捨てろと言うわけです。



これらのことに臨場感のない方たちは、もしかしたら即身成仏を建前だと思っているかもしれません。それは違います。誰でも今、悟れますし、捨てられます。それを体感から言語の臨場感で知らしめるために私はここで、できる限りの言葉を尽くしているのですから。



「アプリオリを尊重する」と博士はおっしゃっていますが、セックスだけを通して見ただけもWant toで登頂する抽象度階梯の険しさがよくわかるのではないでしょうか。だから資本主義社会の中で生きることにはなんの問題もない、創造性を発揮する気がない人は現状の外に出てはならない、と博士は警告しているわけです。言うなれば差別や戦争を含めたアプリオリの有りようも極論すると人間の創造した信託システムの一部だと言えるのであり、お互いが命を取り合いながら、あるものは生き延びつつ、それが極相に達した時(資本主義が共産主義に反転するのはマルクスの時代からわかりきっていること。資本主義の理想的な絶頂期は苫米地博士によると2007年ごろ。つまり今が反転の時。)に必然的に起こる急激な変化や暴走を制御するのもまた、それを利用してきた人類の役目なのではないでしょうか。割りに合わない気がするのも確かでしょうけど、苫米地派の中枢は危険なタダ働きを楽しむぶっ飛んだ人間の集まる場所と言えるでしょう。もっともそのレベルの変人はごく一部かもしれませんが、それはまさに映画の中の世界のようです。



今回は性の抑制をアプリオリとの関係性という外側から対立的に見るのではなく、セックスという一つの次元を、波動方程式の立ち上がる部分から言語的に読み解くことで明らかにしてみました。その解放という抽象度については、質問コーナーで回答します。